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皆さんは、岩井昇山という人物をご存知だろうか。恐らく、ほとんどの方は初めて聞く名であろう。実は私もその名前を知ったのは、今年で八十七歳になる父が所蔵する二曲一双の屏風絵の「昇山」というサインを見止めた時である。今からかれこれ三十年以上も前になるだろうか、その屏風絵は、元は襖絵であったろうか四季山水の絵で、細密画のような精緻さと、それでいながら四季折々の空気感を的確にこちらに伝えてくる秀逸なものであった。「昇山」というサインも、鋭利な日本刀のような切れ味を持った存在感のあるものであった。
「昇山って誰?この絵は素晴らしいね。」 父は顔をほころばせながら言った。 「家のすぐ近くに住んでいた絵描きさんで、全く無名のひとだけど、眺めていると不思議に落ち着くので気に入って集めているんだよ。お前にも良さが分かるかい。」 しばらくしてどこから手に入れたのか、昇山に関する一文を持って私にワープロで清書しろと言う。それは、次の通りであった。 郷土の画家 岩井昇山 岩井昇山は寄居町桜沢本村に住し、妻(くに)と共に身寄りとてなく暮らしていた。糊口をしのぐため、遠近の僅か訪うひとの求めに応じ、祝い絵の蓬莱山などを書きながら、古武士そのものの枯淡の日々をすごしていたという。 翁は名は小五郎といい、号は昇山、明治三年東京に生まれる。父祖は京都伏見の甲冑師、岩井平次郎秀一師で、蜂須賀阿波守の家臣。明治維新の際、旗本八万旗の版籍奉還と共に零落したという。 父の太政官任官後、幼くして松本楓湖、吉沢雪山に歴史画を学ぶ。以来、今日までこの道に精進した。世に無名的ではあるが、その絵画たるや実に清澄透徹、澄みて鏡の如しで、一種独特なる風格を持った名画である。 昇山の絵を生まれてはじめて見て私は驚いた。 「これが昇山の絵か!」 まさに俗を越えた悟悦の境地。いうなれば、かの剣聖「宮本武蔵」の筆を思い驚嘆した。 おそらく一級品にて、識者もまた感銘する事は想像に難くはない。 昇山は昭和二十八年一月十一日未明、眠るがごとき大往生を遂げたという。 少し、文体は古めかしいが名文である。内容もどうやって調べたのだろうか、後に専門的に調査する事になるが、相当確かなものである。作者は折原の麦屋清済氏だと聞いた。 父も一時期、大変な執心振りだったため近在の骨董仲間では、昇山が出たら柴崎さんのところへ持って行けということになっていたらしい。父が最初に昇山の作品に出会ったのは昭和三十三年頃というから、かれこれもう少しで五十年にもなる。以来、薦められるままに無名であるからしてそれほど高価なものではないので、今では四十数点の作品がある。 少し話は変わるが、私のもうひとつの趣味はインターネットである。ホームページの開設はここ寄居近在では早いほうで、今ではアクセス数が十六万件を超えている。実はそれにこの昇山のことを載せたのである。そうしたところ、この現代の機器は、はるかに想像を超えた出会いを作り出す。実は三年ほど前、何と昇山のひ孫だという方からインターネットを見たと言って私に連絡をよこしたのである。何としても昇山の作品を見てみたいと言う事で拙宅にもやってきた。その喜びようは尋常ではなく、つくづく収集してきた父も嬉しかったようである。極め付きは、美術専門誌の「美庵」という編集者から連絡が入り、何とこの無名の画家である昇山の特集を組みたいという。その編集者は堀川氏というが、東京の骨董店で目にした画がことのほか気にいった。作者は昇山というがどこを調べても的を射ない。これほどの技量を持った画家なのにどういうわけか、深く興味を持ったのだと言う。インターネットで検索をしたら私のところに行きついたのだという。そこで特集の話である。私と父は最初冗談かと思ったが、相手は至極真面目である。その後、一年がかりの取材を経て、「幻の画家・岩井昇山」という冊子が出来上がった。さらに詳細をお知りになりたければ芸術出版社(03・3464・4451)に問い合せて欲しいが、一読に値する仕上がりである。我々にとって、特に嬉しい記事をご紹介したいと思うが、それは画家であり国芳研究の第一人者である悳(いさお)俊彦氏と父との対談のくだりである。 悳)絵というのは、その作者の人となりをよく表します。昇山の絵は、非常にというより極端に繊細な人柄が出ていると思うんです。単に細かい絵を書く人が繊細かというとそうではない。省くべきところをしっかり省き、描くべきところはしっかり描く。だから描いていないところも立派に発言し、繊細なところがより引き立つ訳です。描きすぎた絵はただうるさいだけですから。最小限の言葉で、言うべきところはしっかりと言う。昇山の絵はそういう絵だと思います。つまり昇山は無駄口を叩かない。しかし士族の出だけあって、いざとなればしっかりと言うべきところは言う。そんな人間像が彼の絵から見えてきます。決してひと嫌いなのではなく、ただ世間の雑事に惑わされずに画道に打ち込みたかったという事でしょう。 柴崎)そのお言葉をうかがうと、不遇のまま亡くなった昇山も浮かばれる気がします。昇山と付き合ってもう半世紀近いですが、改めて自分でも本当に昇山が好きだったんだなと思います。 与えられた紙面が少なくなってきた。そろそろ文を閉じなくてはならないが、世によく親子の断絶とか、親父が黒と言うと、息子が白と言うケースもある。私たち親子は、無名ではあるがしっかりと自己の信念を貫きながら画業に打ち込んだ昇山の生き様を誇りに思う気持ちを共有している。 昇山の作品は、まさにその証なのである。 ------------------------------------------------------------------------- 今回、熊谷商工信用組合寄居支店さんのご好意で「岩井昇山展」が開催されることになった。詳細は別紙の通りですので、お時間がある方はお出かけ下さい。
by y-rinri
| 2008-09-04 09:50
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