カテゴリ
以前の記事
2016年 01月 2015年 01月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 07月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 お気に入りブログ
リンク
最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
寄居文芸の原稿を、男衾の杉野さんから頼まれた。前回は郷土の無名画家、岩井昇山について書かせていただいたが、今回は「啐啄会」について書いて欲しいとの事である。その会は、まさに私の青年期の人格を形成するに大きな影響を与えた会である。冊子になるにはもう少しの時間がかかるようなので、ここに事前に掲載し、皆様のご批判を仰ぎたい。
「我が意中の人たち」 私は昭和二十四年生まれなので、今年で還暦を迎えたことになる。最近、あるご縁で知り合った方に「柴崎さん、漢学をやると元気になりますよ。」と言われ、この年に成って恥ずかしながら、論語の勉強を始めた。毎月十五日の夜、各地の経営者が集まってくる。場所は嵐山の安岡正篤記念館である。講師は元埼玉県教育長で、記念館々長でもある荒井桂先生である。先生は大変な碩学で、論語の講義も興味は尽きないが、悠久なる中国の歴史譚は、つい時を忘れてしまうほど面白い。終了後のコップ酒を傾けながらの歓談も、穏やか且つ和やかで、先生の君子然とした雰囲気そのものである。 研修場所からして当然、安岡正篤という人物にも私の関心は拡がり、陽明学を基にした所謂、安岡教学(安岡人間学)に関する本を、暇を見つけては読んでいる。安岡正篤という人は、ご存知の方もおられると思うが、東大の学生時代、若くして「王陽明研究」という書を世に問うて、一躍注目を浴びた人である。その見識の高さから、吉田茂を筆頭に、戦後の歴代総理の指南番と言われた人である。日本の将来は、資本主義ならぬ農本主義で行くべきであると、嵐山に「日本農士学校」を設立した。 その人が、「六中観」ということを言っている。いわば、経世のリーダーが心がけるべき指針であり、それは六つあるという。それは「忙中閑有り」「死中活有り」「苦中楽有り」「壺中天有り」「腹中書有り」「意中人有り」である。特に今回は「意中人有り」を取り上げるが、心の中に人を持て、ということである。その人とは、私淑すべき人、尊敬すべき人、何か事を起こそうとするときの同志といった人のことである。その人とは、存命しているかどうかは問わない。歴史上の人物でも構わないという。ふと私は立ち止まって考えてみた。まさに私にとってその人とは、今は亡き、石沢義夫先生と森三郎先生である。人の出会いと縁ほど、妙なるものは無い。 今から、三十年以上も前になるだろうか、東京の大学を卒業して、零細企業の長男で親の後を継ぐために、都落ちした気分で毎日を鬱々と過ごしていたとき、大蔵省の役人を務め、現在のJT、当時の日本専売公社を退職され、帰郷されていた森さんと出会ったのは、寄居ロータリークラブの青年部を作る為の会合の折である。森さんのその威風堂々として、パイプたばこが良く似合い、京都大学在学中から続けている裏千家の茶道は一流、話術も当意即妙、深い教養と見識を髣髴とさせるその佇まいに、当時の私はすっかり心酔してしまったのである。ロータリーのその画策は失敗に終わったが、その出会いから私は森さんのお宅に、足繁く通うようになった。そんな私の思いは、同年輩の寄居の青年たちの思いと重なり、数人の若者たちが、森さんを取り囲むように集まるようになった。ただ集まっておだを上げているだけでは勿体無いということで、古典を読み合おうと、芭蕉の「奥の細道」や「平家物語」を題材にして輪読が始まった。その会は日頃、文化乏しき私の日常生活の、良き清涼剤となっていった。そうこうする内に、住まいがご近所ということもあって、時々石沢先生にも、お顔を出していただけるようになった。輪読の教科書が「奥の細道」ということもあり、また蕉風俳諧を正しく継承する連句の大家でもある石沢先生には、時々俳句の手ほどきもしていただいたものである。その内、会も定着してきた事もあり、会の名称を石沢先生に考えて戴こうという事になった。そしてそれは「啐啄会(そくたくかい)」ということになった。先生の説明によれば、それは「啐啄同機」という禅語から来ていて、啐も啄も両方、嘴(くちばし)の事で、親鳥が外から、雛鳥が中から、卵の殻をつついて、まさに機が一になったときに、雛が卵から孵ることを意味したものである。つまり親鳥が、石沢先生や森先生、雛が我々の事である。 血の気の多い、青年期の我々の事である、勉強と合わせて当然、町の将来のことにも議論は移って行った。しかし如何せん町のことに無知な我々である。まずは郷里である町のことを知ろうということで、町の歴史、風土、文化、自然といった多方面の専門家に、それらを聞く機会を作ろうということになった。それを特定の我々だけで聞くのは勿体無いということで「寄居夏期大学」が始まったのである。その第一回目のパンフレットの巻頭文をここに再掲してみたい。 「寄居町にとって、この夏はいつもの寄居と色合いが違う事を、予感する。一九七二年十月、私たちはある危機感とあせりに似たものと、あきらめにも似たカタルシスをもって町の一角に集合した。私たちにとってそれは偶然なものであったにせよ、町を考える若者にとっては、唯一の必然的に表出した若者のスペースであった。」 この作者は実は私なのだが、若気の到り紛々たる文章で、お恥ずかしい限りであるが、いま読み返してみると、行間からやり場のない腹立ちと一方では若者だけが持つ いい意味の不遜さといおうか、そういうものが伝わってくる。ある町作りの問題意識や行動が生まれる、そのモチベーションが、直截に語られてはいないだろうか。 石沢先生にも、我々の活動に対する激励の文章を揮毫していただいた。 「森さんのところへ青年が集まって古典の勉強をしている。職業、環境を異にしながら仲良くやっているのは良い。この青年たちは、町の発展や将来についてよく意見交換をするとの事。古典愛好家がまちの発展を考えるという事は、次元の高い立派な発想である。新しく正しいものは、古く良き伝統の上に育つ事を知っているからである。」 さすがに先生の文章は、今読んでも新鮮である。本(もと)に温故知新の精神が脈打っているからかも知れない。 このように、今で言うコミュニティカレッジの原型みたいなものが始まり、延々と毎夏二十年以上、継続するのである。何時しかそれは、寄居の夏の風物詩とも言われるようになり、それらの郷土を思う知の堆積が、いろいろ議論はあろうが、かつての市町村合併論議の礎にもなり得ているのである。これからも恐らく局面にあたって、それが表出することもあるだろう。そして、我が意中の人たちが、そっと我々の耳元に囁きかけ、正しき道に導いてくれることを心から念じている。
by y-rinri
| 2009-09-02 16:23
|
ファン申請 |
||